音の記憶④『蓮の花のひらく音』

 今年も美しい蓮の季節が巡ってきた。そして今日2017年7月11日は東日本大震災から6年4か月め、さらにもうひとつ大事なことは、戦前の治安維持法(大正14年)にあたる共謀罪が施行される日ということ。これは今から94年前(大正12年)の関東大震災から、昭和戦前の軍国主義へと突入していく時代の空気ととてもよく似ている。もちろん当時の芸術家や生活人も、法が施行された時はおそらくまだ他人事だったと思う。それよりも自分の表現や夕飯のおかずに頭を悩ませるほうが先だったことだろう。ただしその後の歴史で何が起こったのか。「戦争反対」とつぶやくだけで密告され、逮捕され、拷問のはてに殺される時代がやってきた。そのことは今一度知らなければならない。それは表現の自由、内心の自由、自分らしく生きることを諦めないためだ。
 2011年の夏、『音さがしの本~リトル・サウンド・エデュケーション』(M.シェーファー、今田匡彦著 春秋社)の課題「花のひらく音をきく」に惹かれ、戦前の朝日新聞紙上で繰り広げられた『蓮の音論争』について調べていた。永田町にある国会図書館には、窓の外から国会前の原発反対デモのすさまじいシュプレヒコールが響き渡っていた。
 手にしていた戦前の新聞記事は、ちょうど「蓮の音はしない」と断定された昭和11年のものだった。この年は歴史を振り返った時にターニングポイントとなる。2月にクーデーター未遂事件を起こし処刑された、多くの地方出身・青年将校たちの名前が列挙され(226事件)、ガタガタと音を立てるように軍国主義に突入していく国の姿があった。2011年の永田町に渦巻く怒号が戦前の戒厳令と重なって、時間を遡っているような不思議な感覚になった。驚くのは、この昭和11年までは植物学者も含め当たり前に「ある」と思われていた、または「きいた」人がいた「蓮の音」が、「科学」という言葉を前に見事に消えてしまったことだった。風流が軍国時代にそぐわないと忌み嫌われ始める一方、「国民歌謡」の放送が始まり、東京音楽学校には邦楽科が設立される。プロ野球は当たり前に開催されていたし、日劇もあった。そして1940年に幻となった「東京オリンピック」の開催地が東京に決まり、今の国会議事堂が出来たのもこの年だ。秋田では豪雨でダムが決壊し400名近い人が犠牲となっている。安倍定事件も起きている。この年にひっそりと「蓮の音」が消えたことは、おそらく誰も気づいていない。その後の戦時中、上野不忍池は食糧難から田んぼに埋め立てられ、次に蓮の花を咲かせるのは昭和40年代に入ってからだ。しかしこの国の人たちの耳に「蓮の音」が戻ることはなかった。
 M.シェーファー/今田がリトル・サウンド・エデュケーションの中で「花(蓮)のひらく音をきく」と提示したのは、そこに「芸術とは何か」の真髄があったからに他ならない。たとえば自分以外の誰もが「科学」を掲げて「音はしない」と言っても、「ある」と思えばあるのである。それが「内心の自由」だ。しかし「カミカゼ」を信じて戦争に突入したことも、実はこの発想と大差ない。だからこそ戦後、大賀博士は執拗に「蓮の音はしない」とあちこちで記している。それは「迷信を信じやすい」この国が起こした戦争の過ちを反省した言葉なのだ。
 私が毎年この記事を掲載するのは、特に若い皆さんにひとりでも史実を知ってもらいたいこともあるし、自分のためでもある。人は日々の暮らしの中であきれるほど多くのことを忘れてしまう。しかも世界はひとつではないのである。今日も九州地方は豪雨で大変な被害に遭われている。地震も起きた。心を痛めながらも夏休みの計画に心を躍らせたり、糠漬けのつかり具合に一喜一憂もする。そうやって、ひとりひとりの暮らしの中でいつの間にか悲惨な時代がやってくるのだろう。
 2011年の夏、国会図書館の中できいた永田町に渦巻いていた怒号。決して忘れてはならない音の記憶である。同時に「蓮の音」に芸術の希望を見出し、弘前の今田研究室に向かった晩秋のことも一生忘れないだろう。
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